カトリック聖人の生活 ✞ パート1 – シエナの聖カタリナ ❀ リジューの聖テレーズ ❀ 聖イグナチオ・ロヨラ ✰ アビラの聖テレサ ❀ 聖フランシスコ・ザビエル ✰ アッシジの聖フランシスコ ✰ 福者カルロ・アクティス ✰ アッシジの聖クララ ❀ マザーテレサ ❀ 聖ドミニコ ✰ 聖ベルナデッタ ❀ 聖テレーズの約束 ❀ 聖カタリナ・ラブレ ❀

カトリック聖人の生活 ✞ パート1 -【シエナの聖カタリナ】【リジューの聖テレーズ】【聖イグナチオ・ロヨラ】【アビラの聖テレサ】【聖フランシスコ・ザビエル】 【アッシジの聖フランシスコ】【福者カルロ・アクティス】【アッシジの聖クララ】【マザーテレサ】【聖ドミニコ】【聖ベルナデッタ】【聖テレーズの約束】 【聖カタリナ・ラブレ】


喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある(マタイ5・12a)

 古くから数多くいるキリスト教の聖人の伝記を一望すると、いくつかの事実が浮かび上がる。

1.聖人の職業は実にさまざま。私たちは、聖人になるには修道者になって修道生活を送って…とイメージするが、聖人には王もいれば乞食もいる。インテリも庶民も、医師もうつ病の人も、農民も教師も、ストッキングの会社の社長もいる。主人も召使いもいれば、年寄りも子供も女性もいる。

あらゆる時代、国、身分、能力、職業にかかわらない。つまり、聖人とは私たちにとって身近な存在なのだ。


シエナの聖カタリナ】教会刷新 アヴィニョン捕囚・教会大分裂(シスマ)

14世紀、教皇は遠くフランスのアヴィニョンに幽閉されていました。当時のカトリック教会は堕落し、腐敗を極めていました。アヴィニョンにある教皇庁跡。教皇のいわゆるバビロン捕囚。 カタリナはいわゆるシスターではなく、ドミニコ会の在俗信者です。そんな彼女を通して、教会は刷新され、教皇のローマ帰還を促し、ついには、教皇をローマに連れ戻すことに成功しました。

カタリナはイタリア北部シエナに、1347年3月25日生まれました。 カタリナが6歳の時、丘の上のサンドミニコ教会の上に、教皇の衣を召し、教皇冠をいだいたキリストの幻を見ます。この出現が、彼女の一生涯を決定づけました。主に身をささげて、人々の救霊のために生活するようになりました。

リジューの聖テレーズ】小さき道 女性三人目の教会博士

修道女テレーズ・マルタンが最後の息を引き取ったのは1897年、9月30日の午後7時20分。享年24歳でした。 家族とわずかな友人、そして20人の修道女以外、彼女を知る人はいませんでした。 ところが、15年もしないうちに、自叙伝は100万部が印刷され、世界的に有名になりました。 テレーズは生前、次のように予言していました。

「神様は、私の大胆な望みを無限に超えた驚くべきみ業を、私のためになさるでしょう」 テレーズの死後、彼女の取り次ぎによって行われた奇跡の記録は記録することが不可能なほどの量となり、 1940年には一日平均、三千通の感謝の手紙が、リジューのカルメル会修道院に殺到するほどになりました。 彼女の腐敗を免れたご遺体は、現在もここに安置されており、見ることができます。彼女は奇跡をまき散らし、人々の心を変えました。

聖イグナチオ・ロヨラ】 イエズス会創立の物語

カトリック教会最大の修道会、イエズス会初代総長。イグナチオ・デ・ロヨラ。 彼は若き日に、異端審問官から危険人物とマークされ、宗教裁判にかけられ、なんら異端の証拠はないにもかかわらず、無実の罪で突然、17日間幽閉されたことがありました。

1492年、スペイン王国はイスラム王国をグラナダで滅ぼしました。

イスラム勢力のウマイヤ朝が711年にイベリア半島へと侵入。一時は半島全体がイスラム国家となりましたが、700年後、ついにはイスラム国家の撃退に成功したのです。 このレコンキスタ(再征服運動)の終了の一年前、スペイン、バスク地方、ロヨラ城に、イグナチオは生まれます。騎士として各地を転戦したイグナチオ。

1521年5月20日に行われたパンプローナの戦いで負傷します。療養中は、キリスト伝と聖人伝。二冊の本に夢中になりました。そして、聖フランシスコや聖ドミニコのように生きたいと願いました。

アビラの聖テレサ】完徳の道 霊魂の城 教会博士

中世のカトリック教会は大変裕福で、聖職者は第二身分の貴族を超え、第一身分。司教の報酬は封建領主を超えるほど。聖職者の中には秘密の子供をもつ者もおり、堕落していました。カトリック教会は宗教改革により最大の危機を迎えていました。 19歳でカルメル会に入った彼女は修道院の中でこの教会分裂の状況を憂い、泣いていました。

当時の修道生活は、規律・修道精神が緩慢となっており、テレジアはそのことにも失望していました。 テレジアは、幻滅、悲哀、霊的乾燥、信仰に対する疑問などに襲われます。しかしこの苦しみを通して、「魂の奥底で、神とともに生きる」祈りと瞑想の深い神秘の体験をします。

聖フランシスコ・ザビエル】 東洋の使徒

東洋の使徒、フランシスコ・ザビエル。 2014年11月22日、インドのオールドゴアで、 フランシスコ・ザビエルの遺体が公開されました。

10年に1度、一般公開されるザビエルの遺体。 次回の公開は2024年です。

1549年、日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエル。

東洋の使徒と呼ばれるザビエルは、1506年4月7日、 スペインのナバラ王国、ハビエル城で生まれました。

パリ大学にて、同じ寮にいたロヨラから霊操の指導を受けました。 ロヨラ、ザビエルらパリ大学の7人は、モンマルトルの丘にて、 イエズス会を結成します。

1540年、ポルトガル王ジョアン3世は、生まれたばかりの イエズス会に対し、アジア宣教師を要請しました。 ザビエルは、1541年4月4日、アジアに向け出航しました。

荷物は数冊の書と、毛布1枚だけでした。 多くの苦難を経て、5月5日ついにインドのゴアに到着しました。 インドでの布教は進展しましたが、 現地ポルトガル人が女奴隷を買って欲望を満たしているのが 耐えられませんでした。 そこで1545年、異教徒への布教をめざして 最前線のマラッカに移りました。

そこで、日本人ヤジローと運命的な出会いをするザビエル。 ヤジローは薩摩の島津家の家臣の息子で、 人を殺してマラッカまで脱出してきたとのことでした。 ザビエル一行は、もう一人の日本人、 ベルナルドとともに鹿児島に上陸。 島津貴久に布教許可を得、短期間で100人余りが入信しました。

仏教からのクレームも露わになり、ザビエルは、 王に会って布教許可を得るべく、京都に行くことを決意しました。 しかし、都は荒れ果て天皇との会見もできず、 10日余りでそこを去りました。 その後、山口に行き、天皇に渡すはずだった土産を渡して 布教許可を取りました。短期間で5~600人が入信しました。

ザビエルは日本人の印象を、次のように報告しました。 ここから日本に関する経験を述べる。まず、今まであらゆる民族の 人々と話してきたが、日本人こそ一番良い発見であった。 キリスト教以外の宗教を信仰する民族の中で 日本人に勝てる他の民族はいない。

なぜなら、彼らの話し方はとても丁寧だし、そのほとんどが悪気 のない優しい人々であり、名誉の重んじた素晴らしい人々である。 何よりも名誉を大事にする。彼らのほとんどが貧しい人々である。 たとえ身分の高い人が貧しくても、 身分の低い人に軽蔑はされないのである。

日本人にあって我々キリシタンの人々にないことが1つある。 それはたとえ身分の高い者が、 いくら貧しくとも金持ちと同じように尊敬されるのである。 これは我々のようなキリシタンの人々にはみられない現象である。 身分の高い人はいくら財産を獲得できようとも 他の身分の人とは結婚はしない。 なぜなら、身分の低い者と結婚をすることは 彼らが自らの名誉を失うことにつながるからである。

つまり、日本人は何よりも名誉を大きく重視するのである。 ザビエルが日本に滞在したのは2年半ほどでした。 日本での布教には影響の強い中国での布教が 不可欠と考えたザビエルらは、中国に向かいます。

1552年9月、中国の上川島に到着し、上陸許可を申請。 しかし中国への入境は思うようにいかず、ザビエルは病を発症。 12月3日、上川島でこの世を去りました。

46歳でした。 ザビエルの遺骸は中国の上川島に葬られましたが、 2カ月後に開かれたてみると全く痛んでいませんでした。 参考文献:「ザビエル」結城了吾著 聖母文庫

アッシジの聖フランシスコ】 福音の実践

福者カルロ・アクティス】ご聖体のサイバー使徒

「ご聖体のサイバー使徒」福者カルロ・アクティス(Carlo Acutis 1991-2006年)の生涯についてのビデオです。彼は2006年10月12日午前6時45分に帰天しました。わずか15歳でした。カルロ・アクティスは、2020年10月10日にイタリアのアッシジにて列福されました。

アッシジの聖クララ】清貧の生涯

わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。マルコ10:29-30 福音のためにすべてを捨てたフランシスコ。彼の完全な清貧の生き方、澄んだ瞳にクララは惹かれます。彼女はひそかに彼のもとを訪れ、指導を願いました。 1212年の枝の主日の晩、クララは家を出て、ポルチュンクラの小さな教会へ向かいました。フランシスコは自らの手でクララの髪を切りました。クララは世俗の衣服を脱ぎ、回心の貧しい修道服を身に着け、神と婚姻を結び、キリストの花嫁となりました。こうして清貧の女性修道会、クララ会が始まりました。クララは修道院にただ三種の花だけを植えました。純潔の象徴としてのユリの花。謙遜の象徴としてすみれ。そしてばらの花は、神と人々への愛を意味しています。

マザーテレサ】愛と献身の生涯

1979年12月10日、マザー・テレサは69歳の時、ノーベル平和賞を受賞しました。白地に青いふち撮りのついたサリーにいつも履いていた革ぞうりの姿で授賞式に参加しました。

聖ドミニコ】福音の宣教 異端との対決、破滅しそうな霊魂への愛、キリストの真の貧者、福音の完全実践、ロザリオの祈りの由来

ドミニコ会の精神は「観想し、観想の果実を他の人びとに述べ伝えよ」という言葉によくあらわれています。そのほか、次のような行動原則を掲げています。個人的「使命」です。(従来の修道院のような、規律に従って上長の命令を守り、一個所に定住するという集団に埋没するのではありません) 委託された職務は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という「福音の宣教」でした。

聖ベルナデッタ】野に咲く花 ルルドの泉の奇跡

ベルナデッタ語録 「自分のことなどは、わたしにとって、もうどうでもよいことです」。 「聖母がわたしをお選びになったのは、わたしがもっとも貧しく、もっとも無知な者だったからです」。 「わたしは何も知りませんし、何のとりえもありません」。… フォルカード神父に語った言葉。 「私はプロシア軍を見たくはないのですが、恐れてはいません。神はどこでも同じ方ですからね。プロシア人の間にもいらっしゃるでしょう」 … 普仏戦争のとき、プロシア軍がヌヴェールに迫った頃の手紙の言葉。 「だめです。わたしは貧しいままでいたいから」 … 新聞記者からパリに来れば金持ちになれると誘われたときの言葉。 「家の者が金持ちになることを、私は決して望んでいません。家の者が神を愛し、正しい生活を送ることだけを望んでいます」。 「病人の世話については貧しい人の中にイエス・キリストをみることを忘れないようにしなさい。病人が汚ければ汚いほど、その人を愛さなければなりません」 … 看護の仕事をしていた時代の言葉。 「私は一粒の麦のように挽き砕かれているのですね」 … スール・レオンティーヌに語った言葉。

【聖テレーズの約束】バラの雨 リジューの聖テレーズ 最も人気の聖女のひとり

テレーズは生前、次のように予言していました。 「神様は、私の大胆な望みを無限に超えた驚くべきみ業を、私のためになさるでしょう」 「私は天国から薔薇の雨を降らせましょう」 テレーズの死後、彼女の取り次ぎによって行われた奇跡の記録は記録することが不可能なほどの量となり、1940年には一日平均、三千通の感謝の手紙が、リジューのカルメル会修道院に殺到するほどになりました。 テレーズの遺体は、生前の彼女の要望通り、死後、骨になりましたが、1910年9月6日の最初のお墓の調査の時、棺桶を開けるとすみれとバラの香りがし、棺桶に入れた13年前と同じ状態で枯れる事なく新鮮なままの棕櫚が出てきました。

聖カタリナ・ラブレ】沈黙の聖女 不思議のメダイ 愛徳姉妹会

沈黙の聖女、聖カタリナ・ラブレ。不思議のメダイの物語。ルルドのベルナデッタと同時代の聖カタリナ・ラブレ。メダイが有名になったにも関わらずカタリナは無名をとおし当時の教皇にすら知らされずに、亡くなるまで40年間パリの郊外の老人施設で献身的に介護を行ないました。又、列福の前の遺体発掘の際、体が腐敗していなかったことが確認されました。