【浦上の乙女たち】岩永マキ 児童福祉の先駆者 孤児院 お告げのマリア修道会 長崎のマザーテレサ 児童養護施設

岩永マキは1849年(嘉永2)肥前国彼杵郡浦上山里村平(現:長崎市本原町)で生まれました。禁教時代、潜伏キリシタンの家に生まれたマキは、16~17歳の時に信徒発見という歴史的な出来事を経験しています。この信徒発見は、長崎中のキリシタン信者達にとっては、もちろん世界中のカトリック教徒たちにとっても驚くべき事でした。しかし、大きな後ろ盾を得たキリシタンたちが、仏式の葬式を拒否したことから「浦上四番崩れ」という、悲劇の大弾圧につながってしまいました。

カトリック信徒であるというだけで、およそ3,400人もの全村民が富山以西の各藩に流されました。その内容は『 監禁の上、生殺与奪の権を藩主に与え、教諭を加える。やむなき時は中心人物を処分する 』という、まるで家畜以下のような扱いを受けました。各地に送る際、信者達に対し、「114匹、備前岡山預け!」などと読み上げたと言われています。ひどい藩では、信者達に食事や水もろくに与えず、冬もむしろ一枚もない吹きさらしの家畜小屋に押し込んだ上、見せしめとして真冬の池に投げ込んだり、裸で何日も寒ざらしにしたりなど、考え付く限りの拷問・残虐行為を加え、多くの信者を死に追いやりました。マキ一家は鶴島いう周囲2kmの小さな無人島に移され、人目の届かない場所における拷問、残虐行為が行われ、18人が死亡、マキの父と妹も含まれていました。

禁教令が解かれ、浦上に帰ったマキらに赤痢が大流行。巷に溢れていた孤児や棄児を見かける度につれ帰り、自分たちで養育する一方、田畑を耕しながらの自給自足という生活を続けました。生活できないからこそ子を捨てる「棄児」も多かったこの時代に、見かけた子どもを全て連れ帰って養育することが、いかに大変であったかは、想像を絶します。

マキは、身より頼りの無い子ども達を皆、自分の籍に入れています。それは、無理矢理引き取った子を信者にしようなどといった俗っぽい行為ではありませんでした。マキ自身、次のように話しています。

「明治七年から今日まで三十六年間私の手で引き取って育てた者は、よく覚えていませんがざっと五、六百人位だろうと思います。一旦は私の戸籍に附けるのですから、私は石婦でもこの大勢の子の母となっております。世間では私か貰った子は無理やり耶蘇教にしてしまう様に思し召しておりますが、私たちの宿願は不幸な子を助けたいばかりにて、その子供たちの成長の後は何等の干渉もいたしませんので、宗教は面々勝手な向きを信じていることと思います。又これら多くの成長した子供たちは、この村にも町にも散在して立派に商業なり農業なりを営み、すでに妻子を持ち海外にも数十人参っております。しかし先方から慕ってくればとにかく、決して私の方から世話風を吹かして往復はいたしません。丁年になれば男でも女でもなるたけ私の手から出たことを隠そうといたしますので、私もその心を察して人にはその素性を秘密にしてやります。」

00:00 江戸のキリシタン迫害 00:51 明治の禁教政策 01:16 ツルの拷問 02:45 マキの流配 03:37 裕次郎の拷問 04:56 裕次郎の遺言 06:04 遺言の実現 06:39 高札の撤去 07:32 決死隊の結成 09:18 十字会の結成

参考文献:愛のひと ドロ神父の生涯、そのとき風がふいた―ド・ロ神父となかまち、ド・ロ神父と出津の娘たち

写真・映像:現地取材。

画像:浦上キリシタン資料館。

映画「沈黙サイレンス」文化庁ガイドラインの範囲で引用

認証:お告げのマリア修道会承認済

【浦上四番崩れ】明治政府のキリシタン弾圧 高木仙右衛門 十字架山の由来

【浦上四番崩れ】明治政府のキリシタン弾圧 高木仙右衛門 十字架山の由来

1867年(慶応3年)、潜伏キリシタンとして信仰を守り続け、キリスト教信仰を表明した浦上村の村民たちが江戸幕府の指令により、大量に捕縛されて拷問を受けました。間もなく江戸幕府は瓦解しますが、幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府の手によって村民たちは総流罪とされました。


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 黒船来航 01:03 幕府の弾圧 04:30 仙右衛門の夢 05:27 浦上村総流配 06:46 津和野への旅 09:04 旅の終わり 10:13 夢の実現 12:25 浦上天主堂