カトリック聖人の生活 ✞ パート3 – 聖ヨハネ23世 ✰ 尊者 北原怜子 ❀ ゼノ修道士 ✰ 永井隆博士 ✰ 宣教師と植民地支配 ✰ 聖母出現 1 ❀ 日本26聖人 トマス小崎 ✰ 御聖体の奇跡 その1 – 2 ✰ 内村鑑三 ✰ 聖母出現 2 ❀ 御聖体の殉教者 聖タルチシオ ✰ 永井隆博士 ✰
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある(マタイ5・12a) 古くから数多くいるキリスト教の聖人の伝記を一望すると、いくつかの事実が浮かび上がる。
1.聖人の職業は実にさまざま。私たちは、聖人になるには修道者になって修道生活を送って…とイメージするが、聖人には王もいれば乞食もいる。インテリも庶民も、医師もうつ病の人も、農民も教師も、ストッキングの会社の社長もいる。主人も召使いもいれば、年寄りも子供も女性もいる。
あらゆる時代、国、身分、能力、職業にかかわらない。つまり、聖人とは私たちにとって身近な存在なのだ。
諸聖人の祭日 – カトリック 聖ヴィアトール 北白川教会 (京都)
【聖ヨハネ23世 】平和の教皇 第二バチカン公会議 教会一致 刷新の人 第二バチカン会議 遺体 奇跡
教皇ヨハネ23世は、エキュメニズム(教会一致)への情熱を示しました。1500年代以来、初めてイングランド国教会大主教をバチカンに迎え、正教会へも公式メッセージを送りました。また、東西冷戦の解決を模索し、キューバ危機においても米ソ双方の仲介に尽力しました。さらに彼は長きにわたってカトリック教会の現代化を意図し、誰もが予期しなかった公会議の開催を指示しました。彼は準備委員会を発足させ、ついに1962年10月、第2バチカン公会議の開催にこぎつけました。
【尊者 北原怜子 】蟻の街のマリア カトリック潮見教会 ゼノ修道士 東京大空襲
尊者 北原 怜子(きたはら さとこ、1929年8月22日 – 1958年1月23日)は、キリスト教の教義に基づき献身的な活動を展開した社会奉仕家です。「蟻の町のマリア(ありのまちのマリア)」とよばれました。
【ゼノ修道士 】蟻の街のゼノさん カトリック潮見教会 長崎原爆 戦災孤児 北原怜子 蟻の街のマリア 浦上天主堂 聖母の騎士
ゼノ・ゼブロフスキー(Zenon Żebrowski、本名:ヴワディスワフ・ゼブロフスキー(Władysław Żebrowski)1891年12月27日 – 1982年4月24日)は、ポーランド出身のカトリックの修道士。「蟻の街の神父」として知られ、戦後、戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に力を入れました。日本人のイメージから「ゼノ神父」と呼ばれることがありますが、司祭(神父)ではなくコンベンツァル聖フランシスコ修道会の修道士です。
【永井隆博士 】ロザリオの鎖 長崎原爆 浦上天主堂 長崎大学医学部
島根県出身の永井博士は、長崎医科大学卒業後、放射線医学を専攻しました。当時は結核患者が多く、医療機器も不十分だったことから、放射線を過量に受け、「慢性骨髄性白血病、余命3年」と宣告されました。
その2ヶ月後、原爆を被爆し大けがを負って、妻までも失ったが、被災者の救護活動に積極的に取り組み、ついには寝たきりとなってしまいました。 しかし、科学者としての不屈の研究心とカトリック信徒としての厚い信仰心もあって、病床にありながら十数冊もの著書を執筆しました。
博士は、この建物を「己の如く隣人を愛せよ」との意味から「如己堂」と名づけ、ここで 2人の子どもと生活しました。そして、ここから世界中の人々に戦争の愚かさと平和の尊さを発信し続け、昭和26年(1951年)5月1日、43歳で永眠しました。
博士の恒久平和と隣人愛の精神は、今も多くの人に受け継がれておリ、如己堂はその象徴となっています。 如己愛人【自分を愛するように人も愛しましょう】
【宣教師と植民地支配 】キリスト教と奴隷貿易 奴隷解放闘争 イエズス会のミッション キリシタン
サブリミス・デウス(ラテン語:Sublimis Deus )は、1537年6月2日に教皇パウルス3世が公布した勅令。西と南のインディアンと呼ばれるアメリカ大陸の先住民とその他のすべての人々を奴隷にすることを禁じている。
アメリカ先住民は、たとえ異教徒であっても、自由や私有財産の権利を持つ完全に理性的な人間であると述べている。 『サブリミス・デウス』の文言は、広範に適用される宣告だった。
アメリカ先住民だけでなく、すべての未知の民族に適用されるよう構成されている。 不肖ながら、地上で主の力を行使し外にいる主の群れの子羊たちを、我々に委ねられた群れに引き入れようと全力で努力しています。しかしながら、インディアンは真の人間であり、カトリックの信仰を理解する能力があるだけでなく、我々の情報によれば、その信仰を受けることを強く望んでいると考えます。
これらの弊害に対する十分な救済策を提供したいので、我々は、これらの我々の手紙、または公証人によって署名され、教会の高官の印章で封印された翻訳は、原本と同じ信用を与えることを定義し、宣言する。これまでに、またはこれからいかなる反対があったとしても、前記のインディアンおよび、後にキリスト教徒によって発見される可能性のある他のすべての人々は、たとえイエス・キリストの信仰を持たない者であっても、決して自由や財産の所有を奪われない。
また、彼らは自由かつ合法的にその自由と財産の所有を享受することができ、またそうすべきであり、いかなる形でも奴隷にされてはならない。
これに反することが起こった場合、それは無効であり、何の効果も持たない。 ??パウルス3世『サブリミス・デウス』 1537年、サブリミス・デウスにおいて教皇パウロ3世は異教徒を奴隷とすることを無効だと宣言していたが、1560年代以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教の妨げになり、宣教師への誤解を招くものと考えるようになっていた。
ポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を度々求めており、1571年には当時の王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功した。 1587年(天正15年)6月18日、豊臣秀吉は九州平定の途上で、当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師ガスパール・コエリョとの夕食後、重臣達の御前会議で施薬院全宗が寺社破壊や 奴隷貿易等を行っていると讒言をし高山右近に棄教をせまったが殉教を選ぶと拒否されたため、コエリョを詰問した。
翌6月19日、キリスト教の布教を禁じる『吉利支丹伴天連追放令』(バテレン追放令)を発布した。バテレン追放令で奴隷貿易を禁じたとされるが、実際に発布された6月19日付けのバテレン追放令には人身売買を批判する文が(6月18日付けの覚書から)削除されており、追放令発布の理由についても諸説ある。 バテレン追放令後の1591年、教皇グレゴリー14世はカトリック信者に対してフィリピンに在住する全奴隷を解放後、賠償金を払うよう命じ違反者は破門すると宣言、在フィリピンの奴隷に影響を与えた。
1596年(慶長元年)、長崎に着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンス (Don Pedro Martins) はキリシタンの代表を集めて、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると通達している。
【聖母出現 】乙女峠の聖母マリア 浦上四番崩れ 津和野 キリシタン弾圧・迫害・殉教
乙女峠の由来
明治元年長崎崎浦上の隠れキリシタンは禁教令により、 3394名が捕らえられ、その内、153名は 津和野へ流刑となり、長崎浦上から連行され、 光琳寺の境内にあった古い納屋に収容されました。
彼らは戦国時代のキリシタンの子孫で、江戸時代の250年間、厳しい弾圧の中、隠れて信仰を 守り通していました。 この歴史は世界のカトリック史上、例をみない事で、 歴代のローマ教皇を初め、全世界の人々から賞賛を受けております。
津和野へ連行された彼等は5年の間、 信仰を改めるようにと、ある者は連日三尺牢に入れられ 、ある時は真冬、氷が張りつめた池に何度も入れられ、 筆舌に尽くせぬ拷問を受けました。 そして信仰を守り通したキリシタンの中で、残酷な拷問のために37名が殉教の死を遂げました。 殉教者となった安太郎は拷問で連日三尺牢に入れられていた時、聖母マリアが毎晩のように安太郎の前にあらわれになり、やさしくお話をされ、慰められたそうです。そして安太郎は間もなくして三尺牢の中で、聖なる殉教を遂げました。
乙女峠というこの土地の名称は昔からあったもの ですが、聖母マリアが安太郎に出現された事で、 真にふさわしい名称になりました。 明治6年、250年以上続いたキリシタン禁教令が撤廃され、厳しい拷問を受けながらも信仰を守り通したキリシタン達は、長崎浦上へ帰りました。
【日本26聖人 】トマス小崎 母への手紙 カトリック三原教会 フランシスコ吉 六甲カトリック教会 フィリポ教会
聖トマス小崎は14歳で殉教したキリシタンの少年で、ミカエル小崎の息子です。 (ルイス・フロイスの記録では16歳になっています。) 伊勢に生まれ、司祭になる夢を持って大坂の教会で手伝いをしていた少年で、サン・フェリペ号事件の後、京都へ上るフェリペ・デ・ヘススを案内していて、共に捕えられました。京都の牢で父と再会し、長崎への道中、母に宛てて書いた手紙の内容が伝わっています。
フランシスコ吉は伊勢で生まれ、京都で大工をしていて洗礼を受けました。フランシスコは捕縛されませんでしたが、殉教者と共にしたいという願いを持って長崎への道に同行しました。途中で役人に「お前もキリシタンか」と問われて、信仰を明らかにして捕らえられ、殉教者の一人となりました。洗礼を受けてから殉教までの期間はわずか8ヶ月でした。
【御聖体の奇跡 その1 】現教皇フランシスコ(ベルゴリオ枢機卿)調査 ブエノスアイレスの奇跡 科学的調査
1996年8月18日、御聖体を(ミサの中で)配った後、聖別された一つの御聖体が、教会の中で放置されているのが見つかりました。その教会の司祭、ペセット神父はその御聖体を水の入った容器に入れ、聖櫃の中に納めた、その水の中で御聖体が溶けるために、です。それは教会の中で決められた指示でした。
ところが、8日後にその聖櫃を開けてみると、その御聖体は溶けてはいませんでした。むしろ、血のようなものが御聖体に現れていました。それからさらに3年後の1999年、教区のブエノス・アイレス大司教ベルゴリオ(今の教皇フランシス)は、リカルド・カスタノン・ゴメス医師に、その御聖体を科学的に調査するように依頼しました。
血の滲んだ御聖体は、発見されてから調査されるまでの3年間、まったく腐敗しなかった、どころかその血のような物質は大きくなっていました。それでその物体を別の容器に移し、しっかりと封をして保管をし、その3年後調査を依頼しました。 まず、調査を依頼された医師、ゴメス博士は、その物体が何であるかを知らされずに調査を開始します。それは先入観を防ぐ目的でした。
【御聖体の奇跡 その2 】ランチャーノの奇跡
【内村鑑三 】天主教のすすめ カトリックとプロテスタント 貴婦人的教会 尊敬すべき教会
【聖母出現】グアダルーペの聖母その2 奇跡のティルマ NASAの協力による科学調査 メキシコのシンボル 史上最大の改宗
1531年12月12日、メキシコ・グアダルーペのインディオ、フアン・ディエゴの前に聖母が現れました。ご出現を信じない司教のもとへ、聖母は司教へしるしとして花を持っていくよう言われたディエゴは、花をマントに包み、司教館に運びました。司教館に花を届けた際、ディエゴのマントには聖母の姿が映し出されていました。
【御聖体の殉教者】聖タルチシオ 初代教会 ローマ帝国の迫害時代 カトリックとプロテスタントの違い
聖タルチシオはローマの殉教者、聖人(祝日8月15日)です。アッピア街道のカリストゥスのカタコンベに埋葬されました。教皇ダマスス1世は、牢にいる信徒に聖体を届ける途上、異教徒の群集に襲われ、聖体を守って死んだタルチシオをステファノと並べて謳い上げた詩や墓碑銘を書いています。
ローマ帝国迫害時代、信者の礼拝集会は人肉を食する秘密結社とうわさされ、キリスト信者に対する人々の嫌悪をあおったことも迫害の嵐を激しくした一つの要因です。 初代教会がご聖体をこのように命をかけて大事にしたことは、ご聖体が単なるイエスの象徴ではないことを示しています。また、キリストは霊的に漠然とパンとぶどう酒のうちに存在しておられるわけでもありません。
カトリック教会の聖体祭儀は、一部のキリスト教共同体が主張するような偶像礼拝ではなく、初代教会からの伝統です。カトリック教会は特に聖書に由来する言葉としるしに基づきながら、注意深くミサの典礼を整え、練り上げてきたのです。
【永井隆博士】この子を残して 長崎原爆 浦上天主堂 長崎大学医学部
1945年8月9日放射線専門の医師であった永井隆は、爆心地から700mの距離にある長崎医大の診療室で被爆。自ら重傷を負いながらも、被災者の救護活動に奔走する。その後、白血病で倒れ、この世を去るまでの6年間、多数の著書を通して愛と平和・命の尊厳を訴え続けた。 昭和26年(1951年)5月1日逝去 享年43才。
長崎で原爆にあい、放射線を浴びて不治の原子病患者として床にふす父親と、二人の幼い孤児予定者。この三人が生きてゆく正しい道はどこにあるのか。父親が考えたこと、 子供たちがしたこと、子供たちに話したいことを、あとで読んでもらうために書きに書いた父親の遺言書