カトリック聖人の生活 ✞ パート4 – ド・ロ神父 ✰

カトリック聖人の生活 ✞ パート4 – ド・ロ神父 ✰


喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある(マタイ5・12a)

 古くから数多くいるキリスト教の聖人の伝記を一望すると、いくつかの事実が浮かび上がる。

1.聖人の職業は実にさまざま。私たちは、聖人になるには修道者になって修道生活を送って…とイメージするが、聖人には王もいれば乞食もいる。インテリも庶民も、医師もうつ病の人も、農民も教師も、ストッキングの会社の社長もいる。主人も召使いもいれば、年寄りも子供も女性もいる。

あらゆる時代、国、身分、能力、職業にかかわらない。つまり、聖人とは私たちにとって身近な存在なのだ。


ド・ロ神父】外海の太陽 愛の人 バスチャンの予言 出津教会 黒崎教会 お告げのマリア修道会

マルコ・マリー・ド・ロ神父は、1840年(天保11年)にフランスの由緒ある 貴族の次男として誕生し、神学校卒業後、東洋布教のためパリ外国人宣教会に入会。まだキリシタン弾圧が続いていた1868年(明治元年)に死をも覚悟して 来日し、長崎や横浜で数々の功績を残しました。外海へ赴任してからは布教活動とともに、フランスで学んだ建築・医学・産業など の幅広い分野の知識を活かし、「隣人を自分のように愛しなさい」というキリスト教の教えを実践。宗教を礎とした深い人類愛で、外海の人々のために力を注 ぎ、一度も母国へ帰ることなく、1914年(大正3年)に享年74歳で逝去しました。

【カトリック入門】三位一体の秘儀 神の母

【カトリック入門】三位一体の秘儀 神の母

キリスト教の正統を名乗る共同体はどこでも、世界信条としてのカルケドン信条を承認せざるを得ないのです。このカルケドン信条に聖母が神の母であることが記されています。

ちなみにプロテスタントの福音派も「福音主義キリスト教とは何か」P62 宇田進著の中で、古代教会の正統信仰を受け継ぐ福音派として、このカルケドン信条を受け入れています。

00:00 エフェソ会議 01:16 聖母とキリスト 02:00 主のお母さま 02:53 聖母の暗示 04:38 十字架上の言葉 参考文献:イエズス会、C.バリョヌェボ神父著、「聖人伝」 映像:パブリックドメイン状態ビデオより抜粋。 画像:パブリックドメイン状態写真。

「カトリック東京大司教区」「シノドスへの歩み」For a synodal Church

「シノドスへの歩み」第一回

東京教区シノドス担当者の小西広志神父(瀬田教会主任司祭、フランシスコ会)によるシノドス(世界代表司教会議)第十六回通常総会の解説動画シリーズ第一回です。

「シノドスへの歩み」第二回 シノドスって何でしょう

東京教区シノドス担当者の小西広志神父(瀬田教会主任司祭、フランシスコ会)によるシノドス(世界代表司教会議)第十六回通常総会の解説動画シリーズ第二回です。

「シノドスへの歩み」第三回 道を歩む、ともに歩む 2021年10月24日 年間第30主日B

東京教区シノドス担当者の小西広志神父(瀬田教会主任司祭、フランシスコ会)によるシノドス(世界代表司教会議)第十六回通常総会の解説動画シリーズ第三回です。

「シノドスへの歩み」第四回 シノドス的教会をよりよく理解するために(その一)

東京教区シノドス担当者の小西広志神父(瀬田教会主任司祭、フランシスコ会)によるシノドス(世界代表司教会議)第十六回通常総会の解説動画シリーズ第四回です。

「シノドスへの歩み」第五回 みことばと共に 2021年10月31日 年間第31主日B

東京教区シノドス担当者の小西広志神父(瀬田教会主任司祭、フランシスコ会)によるシノドス(世界代表司教会議)第十六回通常総会の解説動画シリーズ第五回です。

「シノドスへの歩み」第六回 みことばと共に 2021年11月7日 年間第32主日B

東京教区シノドス担当者の小西広志神父(瀬田教会主任司祭、フランシスコ会)によるシノドス(世界代表司教会議)第十六回通常総会の解説動画シリーズ第六回です。

「シノドスへの歩み」第七回 シノドス的教会をよりよく理解するために(その二)

東京教区シノドス担当者の小西広志神父(瀬田教会主任司祭、フランシスコ会)によるシノドス(世界代表司教会議)第十六回通常総会の解説動画シリーズ第七回です。

シノドスへの歩み」第八回 みことばと共に 2021年11月14日 年間第33主日B

東京教区シノドス担当者の小西広志神父(瀬田教会主任司祭、フランシスコ会)によるシノドス(世界代表司教会議)第十六回通常総会の解説動画シリーズ第八回です。

「シノドスへの歩み」第九回 みことばと共に 2021年11月21日 王であるキリストB

東京教区シノドス担当者の小西広志神父(瀬田教会主任司祭、フランシスコ会)によるシノドス(世界代表司教会議)第十六回通常総会の解説動画シリーズ第九回です。

「シノドスへの歩み」第十回 みことばと共に 2021年11月28日待降節第一主日C

東京教区シノドス担当者の小西広志神父(瀬田教会主任司祭、フランシスコ会)によるシノドス(世界代表司教会議)第十六回通常総会の解説動画シリーズ第十回です。

「シノドスへの歩み」第七回 シノドス的教会をよりよく理解するために(その三)

東京教区シノドス担当者の小西広志神父(瀬田教会主任司祭、フランシスコ会)によるシノドス(世界代表司教会議)第十六回通常総会の解説動画シリーズ第十一回です。

「シノドスへの歩み」第十二回 みことばと共に 2021年12月5日待降節第二主日C

カトリック聖人の生活 ✞ パート3 – 聖ヨハネ23世 ✰ 尊者 北原怜子 ❀ ゼノ修道士 ✰ 永井隆博士 ✰ 宣教師と植民地支配 ✰ 聖母出現 1 ❀ 日本26聖人 トマス小崎 ✰ 御聖体の奇跡 その1 – 2 ✰ 内村鑑三 ✰ 聖母出現 2 ❀ 御聖体の殉教者 聖タルチシオ ✰ 永井隆博士 ✰

カトリック聖人の生活 ✞ パート3 – 聖ヨハネ23世 ✰ 尊者 北原怜子 ❀ ゼノ修道士 ✰ 永井隆博士 ✰ 宣教師と植民地支配 ✰ 聖母出現 1 ❀ 日本26聖人 トマス小崎 ✰ 御聖体の奇跡 その1 – 2 ✰ 内村鑑三 ✰ 聖母出現 2 ❀ 御聖体の殉教者 聖タルチシオ ✰ 永井隆博士 ✰


喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある(マタイ5・12a)

 古くから数多くいるキリスト教の聖人の伝記を一望すると、いくつかの事実が浮かび上がる。

1.聖人の職業は実にさまざま。私たちは、聖人になるには修道者になって修道生活を送って…とイメージするが、聖人には王もいれば乞食もいる。インテリも庶民も、医師もうつ病の人も、農民も教師も、ストッキングの会社の社長もいる。主人も召使いもいれば、年寄りも子供も女性もいる。

あらゆる時代、国、身分、能力、職業にかかわらない。つまり、聖人とは私たちにとって身近な存在なのだ。

諸聖人の祭日 – カトリック 聖ヴィアトール 北白川教会 (京都)


聖ヨハネ23世】平和の教皇 第二バチカン公会議 教会一致 刷新の人 第二バチカン会議 遺体 奇跡

教皇ヨハネ23世は、エキュメニズム(教会一致)への情熱を示しました。1500年代以来、初めてイングランド国教会大主教をバチカンに迎え、正教会へも公式メッセージを送りました。また、東西冷戦の解決を模索し、キューバ危機においても米ソ双方の仲介に尽力しました。さらに彼は長きにわたってカトリック教会の現代化を意図し、誰もが予期しなかった公会議の開催を指示しました。彼は準備委員会を発足させ、ついに1962年10月、第2バチカン公会議の開催にこぎつけました。

尊者 北原怜子】蟻の街のマリア カトリック潮見教会 ゼノ修道士 東京大空襲

尊者 北原 怜子(きたはら さとこ、1929年8月22日 – 1958年1月23日)は、キリスト教の教義に基づき献身的な活動を展開した社会奉仕家です。「蟻の町のマリア(ありのまちのマリア)」とよばれました。

ゼノ修道士】蟻の街のゼノさん カトリック潮見教会 長崎原爆 戦災孤児 北原怜子 蟻の街のマリア 浦上天主堂 聖母の騎士

ゼノ・ゼブロフスキー(Zenon Żebrowski、本名:ヴワディスワフ・ゼブロフスキー(Władysław Żebrowski)1891年12月27日 – 1982年4月24日)は、ポーランド出身のカトリックの修道士。「蟻の街の神父」として知られ、戦後、戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に力を入れました。日本人のイメージから「ゼノ神父」と呼ばれることがありますが、司祭(神父)ではなくコンベンツァル聖フランシスコ修道会の修道士です。

永井隆博士】ロザリオの鎖 長崎原爆 浦上天主堂 長崎大学医学部

島根県出身の永井博士は、長崎医科大学卒業後、放射線医学を専攻しました。当時は結核患者が多く、医療機器も不十分だったことから、放射線を過量に受け、「慢性骨髄性白血病、余命3年」と宣告されました。

その2ヶ月後、原爆を被爆し大けがを負って、妻までも失ったが、被災者の救護活動に積極的に取り組み、ついには寝たきりとなってしまいました。 しかし、科学者としての不屈の研究心とカトリック信徒としての厚い信仰心もあって、病床にありながら十数冊もの著書を執筆しました。

博士は、この建物を「己の如く隣人を愛せよ」との意味から「如己堂」と名づけ、ここで 2人の子どもと生活しました。そして、ここから世界中の人々に戦争の愚かさと平和の尊さを発信し続け、昭和26年(1951年)5月1日、43歳で永眠しました。

博士の恒久平和と隣人愛の精神は、今も多くの人に受け継がれておリ、如己堂はその象徴となっています。 如己愛人【自分を愛するように人も愛しましょう】

宣教師と植民地支配】キリスト教と奴隷貿易 奴隷解放闘争 イエズス会のミッション キリシタン

サブリミス・デウス(ラテン語:Sublimis Deus )は、1537年6月2日に教皇パウルス3世が公布した勅令。西と南のインディアンと呼ばれるアメリカ大陸の先住民とその他のすべての人々を奴隷にすることを禁じている。

アメリカ先住民は、たとえ異教徒であっても、自由や私有財産の権利を持つ完全に理性的な人間であると述べている。 『サブリミス・デウス』の文言は、広範に適用される宣告だった。

アメリカ先住民だけでなく、すべての未知の民族に適用されるよう構成されている。 不肖ながら、地上で主の力を行使し外にいる主の群れの子羊たちを、我々に委ねられた群れに引き入れようと全力で努力しています。しかしながら、インディアンは真の人間であり、カトリックの信仰を理解する能力があるだけでなく、我々の情報によれば、その信仰を受けることを強く望んでいると考えます。

これらの弊害に対する十分な救済策を提供したいので、我々は、これらの我々の手紙、または公証人によって署名され、教会の高官の印章で封印された翻訳は、原本と同じ信用を与えることを定義し、宣言する。これまでに、またはこれからいかなる反対があったとしても、前記のインディアンおよび、後にキリスト教徒によって発見される可能性のある他のすべての人々は、たとえイエス・キリストの信仰を持たない者であっても、決して自由や財産の所有を奪われない。

また、彼らは自由かつ合法的にその自由と財産の所有を享受することができ、またそうすべきであり、いかなる形でも奴隷にされてはならない。

これに反することが起こった場合、それは無効であり、何の効果も持たない。 ??パウルス3世『サブリミス・デウス』 1537年、サブリミス・デウスにおいて教皇パウロ3世は異教徒を奴隷とすることを無効だと宣言していたが、1560年代以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教の妨げになり、宣教師への誤解を招くものと考えるようになっていた。

ポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を度々求めており、1571年には当時の王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功した。 1587年(天正15年)6月18日、豊臣秀吉は九州平定の途上で、当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師ガスパール・コエリョとの夕食後、重臣達の御前会議で施薬院全宗が寺社破壊や 奴隷貿易等を行っていると讒言をし高山右近に棄教をせまったが殉教を選ぶと拒否されたため、コエリョを詰問した。

翌6月19日、キリスト教の布教を禁じる『吉利支丹伴天連追放令』(バテレン追放令)を発布した。バテレン追放令で奴隷貿易を禁じたとされるが、実際に発布された6月19日付けのバテレン追放令には人身売買を批判する文が(6月18日付けの覚書から)削除されており、追放令発布の理由についても諸説ある。 バテレン追放令後の1591年、教皇グレゴリー14世はカトリック信者に対してフィリピンに在住する全奴隷を解放後、賠償金を払うよう命じ違反者は破門すると宣言、在フィリピンの奴隷に影響を与えた。

1596年(慶長元年)、長崎に着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンス (Don Pedro Martins) はキリシタンの代表を集めて、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると通達している。

聖母出現】乙女峠の聖母マリア 浦上四番崩れ 津和野 キリシタン弾圧・迫害・殉教

乙女峠の由来  

明治元年長崎崎浦上の隠れキリシタンは禁教令により、 3394名が捕らえられ、その内、153名は 津和野へ流刑となり、長崎浦上から連行され、 光琳寺の境内にあった古い納屋に収容されました。

彼らは戦国時代のキリシタンの子孫で、江戸時代の250年間、厳しい弾圧の中、隠れて信仰を 守り通していました。 この歴史は世界のカトリック史上、例をみない事で、 歴代のローマ教皇を初め、全世界の人々から賞賛を受けております。

 津和野へ連行された彼等は5年の間、 信仰を改めるようにと、ある者は連日三尺牢に入れられ 、ある時は真冬、氷が張りつめた池に何度も入れられ、 筆舌に尽くせぬ拷問を受けました。 そして信仰を守り通したキリシタンの中で、残酷な拷問のために37名が殉教の死を遂げました。 殉教者となった安太郎は拷問で連日三尺牢に入れられていた時、聖母マリアが毎晩のように安太郎の前にあらわれになり、やさしくお話をされ、慰められたそうです。そして安太郎は間もなくして三尺牢の中で、聖なる殉教を遂げました。

 乙女峠というこの土地の名称は昔からあったもの ですが、聖母マリアが安太郎に出現された事で、 真にふさわしい名称になりました。  明治6年、250年以上続いたキリシタン禁教令が撤廃され、厳しい拷問を受けながらも信仰を守り通したキリシタン達は、長崎浦上へ帰りました。

日本26聖人】トマス小崎 母への手紙 カトリック三原教会 フランシスコ吉 六甲カトリック教会 フィリポ教会

聖トマス小崎は14歳で殉教したキリシタンの少年で、ミカエル小崎の息子です。 (ルイス・フロイスの記録では16歳になっています。) 伊勢に生まれ、司祭になる夢を持って大坂の教会で手伝いをしていた少年で、サン・フェリペ号事件の後、京都へ上るフェリペ・デ・ヘススを案内していて、共に捕えられました。京都の牢で父と再会し、長崎への道中、母に宛てて書いた手紙の内容が伝わっています。

フランシスコ吉は伊勢で生まれ、京都で大工をしていて洗礼を受けました。フランシスコは捕縛されませんでしたが、殉教者と共にしたいという願いを持って長崎への道に同行しました。途中で役人に「お前もキリシタンか」と問われて、信仰を明らかにして捕らえられ、殉教者の一人となりました。洗礼を受けてから殉教までの期間はわずか8ヶ月でした。

御聖体の奇跡 その1 】現教皇フランシスコ(ベルゴリオ枢機卿)調査 ブエノスアイレスの奇跡 科学的調査

1996年8月18日、御聖体を(ミサの中で)配った後、聖別された一つの御聖体が、教会の中で放置されているのが見つかりました。その教会の司祭、ペセット神父はその御聖体を水の入った容器に入れ、聖櫃の中に納めた、その水の中で御聖体が溶けるために、です。それは教会の中で決められた指示でした。

ところが、8日後にその聖櫃を開けてみると、その御聖体は溶けてはいませんでした。むしろ、血のようなものが御聖体に現れていました。それからさらに3年後の1999年、教区のブエノス・アイレス大司教ベルゴリオ(今の教皇フランシス)は、リカルド・カスタノン・ゴメス医師に、その御聖体を科学的に調査するように依頼しました。

血の滲んだ御聖体は、発見されてから調査されるまでの3年間、まったく腐敗しなかった、どころかその血のような物質は大きくなっていました。それでその物体を別の容器に移し、しっかりと封をして保管をし、その3年後調査を依頼しました。 まず、調査を依頼された医師、ゴメス博士は、その物体が何であるかを知らされずに調査を開始します。それは先入観を防ぐ目的でした。

【御聖体の奇跡 その2 】ランチャーノの奇跡

内村鑑三】天主教のすすめ カトリックとプロテスタント 貴婦人的教会 尊敬すべき教会

【聖母出現】グアダルーペの聖母その2 奇跡のティルマ NASAの協力による科学調査 メキシコのシンボル 史上最大の改宗

1531年12月12日、メキシコ・グアダルーペのインディオ、フアン・ディエゴの前に聖母が現れました。ご出現を信じない司教のもとへ、聖母は司教へしるしとして花を持っていくよう言われたディエゴは、花をマントに包み、司教館に運びました。司教館に花を届けた際、ディエゴのマントには聖母の姿が映し出されていました。

【御聖体の殉教者】聖タルチシオ 初代教会 ローマ帝国の迫害時代 カトリックとプロテスタントの違い

聖タルチシオはローマの殉教者、聖人(祝日8月15日)です。アッピア街道のカリストゥスのカタコンベに埋葬されました。教皇ダマスス1世は、牢にいる信徒に聖体を届ける途上、異教徒の群集に襲われ、聖体を守って死んだタルチシオをステファノと並べて謳い上げた詩や墓碑銘を書いています。

ローマ帝国迫害時代、信者の礼拝集会は人肉を食する秘密結社とうわさされ、キリスト信者に対する人々の嫌悪をあおったことも迫害の嵐を激しくした一つの要因です。 初代教会がご聖体をこのように命をかけて大事にしたことは、ご聖体が単なるイエスの象徴ではないことを示しています。また、キリストは霊的に漠然とパンとぶどう酒のうちに存在しておられるわけでもありません。

カトリック教会の聖体祭儀は、一部のキリスト教共同体が主張するような偶像礼拝ではなく、初代教会からの伝統です。カトリック教会は特に聖書に由来する言葉としるしに基づきながら、注意深くミサの典礼を整え、練り上げてきたのです。

【永井隆博士】この子を残して 長崎原爆 浦上天主堂 長崎大学医学部

1945年8月9日放射線専門の医師であった永井隆は、爆心地から700mの距離にある長崎医大の診療室で被爆。自ら重傷を負いながらも、被災者の救護活動に奔走する。その後、白血病で倒れ、この世を去るまでの6年間、多数の著書を通して愛と平和・命の尊厳を訴え続けた。 昭和26年(1951年)5月1日逝去 享年43才。

長崎で原爆にあい、放射線を浴びて不治の原子病患者として床にふす父親と、二人の幼い孤児予定者。この三人が生きてゆく正しい道はどこにあるのか。父親が考えたこと、 子供たちがしたこと、子供たちに話したいことを、あとで読んでもらうために書きに書いた父親の遺言書

カトリック聖人の生活 ✞ パート2 – 聖テレーズの姉 ❀ リジューの聖テレーズ ❀ 聖テレーズの約束 ❀ 聖テレーズの召命 ❀ 聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ✰ 聖フランシスコ・サレジオ✰ 聖ヨハネ・ボスコ✰ 聖ドミニコ・サビオ✰ 聖ヨハネ・パウロ2世✰ コルベ神父 ✰

カトリック聖人の生活 ✞ パート2 – 聖テレーズの姉 ❀ リジューの聖テレーズ ❀ 聖テレーズの約束 ❀ 聖テレーズの召命 ❀ 聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ ✰ 聖フランシスコ・サレジオ ✰ 聖ヨハネ・ボスコ ✰ 聖ドミニコ・サビオ ✰ 聖ヨハネ・パウロ2世 ✰ コルベ神父 ✰


喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある(マタイ5・12a)

 古くから数多くいるキリスト教の聖人の伝記を一望すると、いくつかの事実が浮かび上がる。

1.聖人の職業は実にさまざま。私たちは、聖人になるには修道者になって修道生活を送って…とイメージするが、聖人には王もいれば乞食もいる。インテリも庶民も、医師もうつ病の人も、農民も教師も、ストッキングの会社の社長もいる。主人も召使いもいれば、年寄りも子供も女性もいる。

あらゆる時代、国、身分、能力、職業にかかわらない。つまり、聖人とは私たちにとって身近な存在なのだ。


聖テレーズの姉】大好きなレオニー 神のはしため 落ちこぼれ 問題児

妹が聖人となり、リジューに聖テレーズの大聖堂を建てることになりました。献堂式でのバイユ司教の説教では三人のカルメル会のお姉さんたちについて話されました。しかし、レオニーはまったく無視されていました。幼い頃は、家のお手伝いさんにいじめられたり、修道生活でも3度も失敗して、数多くの挫折の内に生きたレオニー。そんなレオニーの列福調査がはじまり、「神のはしため」の称号を受けました。神様の目には落ちこぼれの人は誰もいません。

リジューの聖テレーズ】最も愛されている聖女のひとり 小さき花 幼きイエスの聖テレジア

修道女テレーズ・マルタンが肺結核で最後の息を引き取ったのは1897年、9月30日の午後7時20分。享年24歳でした。家族とわずかな友人、そして20人の修道女以外、彼女を知る人はいませんでした。 ところが、15年もしないうちに、自叙伝は100万部が印刷され、世界的に有名になりました。

テレーズは生前、次のように予言していました。

「神様は、私の大胆な望みを無限に超えた驚くべきみ業を、私のためになさるでしょう」

テレーズの死後、彼女の取り次ぎによって行われた奇跡の記録は記録することが不可能なほどの量となり、1940年には一日平均、三千通の感謝の手紙が、リジューのカルメル会修道院に殺到するほどになりました。

彼女は奇跡をまき散らし、人々の心を変えました。

聖テレーズの小さき道 テレーズは自分の天職を「愛」であると語っており、修道生活においても、人の欠点をゆるすこと、他人に惜しみ無く愛を与えること、人に譲ること、誤解されても相手を責めないこと、批判されても甘んじて受けること、苦手な相手のためにも愛をもって祈り善行をなすことを「完徳」への第一歩であると見なしていました。

【聖テレーズの約束】バラの雨 宣教の保護聖人 リジューの聖テレーズ 幼きイエスの聖テレジア

「神様は、私の大胆な望みを無限に超えた驚くべきみ業を、私のためになさるでしょう」 「私は天国から薔薇の雨を降らせましょう」

テレーズの死後、彼女の取り次ぎによって行われた奇跡の記録は記録することが不可能なほどの量となり、1940年には一日平均、三千通の感謝の手紙が、リジューのカルメル会修道院に殺到するほどになりました。

テレーズの遺体は、生前の彼女の要望通り、死後、骨になりましたが、1910年9月6日の最初のお墓の調査の時、棺桶を開けるとすみれとバラの香りがし、棺桶に入れた13年前と同じ状態で枯れる事なく新鮮なままの棕櫚が出てきました。

【聖テレーズの召命】全生涯の秘密 ジャンヌ・ダルクのように リジューの聖テレーズ 幼きイエスの聖テレジア

聖テレーズの召命と全生涯の秘密

聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ】社会福祉の先駆者 愛徳姉妹会創立者 カタリナ・ラブレの夢の人 不思議のメダイ教会

「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」マタイ25:40

このみ言葉に命を懸けた一人のカトリック司祭の物語。

聖フランシスコ・サレジオ】慈愛と柔和の聖人 聖母訪問会 対抗宗教改革

慈愛と柔和の聖人、フランシスコ・サレジオの物語

聖ヨハネ・ボスコ】若者の父 カトリック教育の師 サレジオ会 扶助者聖母会 ドン・ボスコ

ドン・ボスコは、19世紀に活躍した北イタリアのカトリック司祭、教育者。カトリック修道会であるサレジオ会、扶助者聖母会(サレジアン・シスターズ)の創立者。

聖ドミニコ・サビオ】オラトリオ 小さな巨人 サレジオ会 ドン・ボスコの教え子

ドミニコ・サヴィオは、1842年4月2日にイタリアで生まれました。サレジオ会創立者のヨハネ・ボスコの生徒で、司祭になるために学んでいました。しかし、胸膜炎により14歳で死去します。

聖ヨハネ・パウロ2世】歴史的謝罪 エキュメニズム 空飛ぶ教皇 平和の使徒

2014年4月27日、教皇ヨハネ・パウロ2世の列聖式が執り行われました。同時に列聖が決まった教皇ヨハネ23世、フランシスコ教皇、ベネディクト16世も共同司式者として出席し、 現役・名誉・列聖対象者あわせて4人の教皇の揃い踏みとなりました。

コルベ神父】アウシュヴィッツの聖者 聖母の騎士 20世紀の殉教者 身代わりの愛

アウシュヴィッツの聖者、身代わりの愛を実践し、20世紀の殉教者と言われるポーランド出身のコルベ神父。彼は第二次世界大戦の最も大きな出来事、長崎への原爆とポーランドでの大規模な迫害を予言していました。

聖母の被昇天 (8月15日)

聖母の被昇天

聖母の被昇天(せいぼのひしょうてん, : Assumption of Mary)とはカトリック教会の用語で、聖母マリアがその人生の終わりに、肉体と霊魂を伴って天国にあげられたという信仰、あるいはその出来事を記念する祝日(8月15日)のこと。1950年、当時のローマ教皇ピオ12世のエクス・カテドラ宣言によって正式に教義とされた)[1]

概要

元来は正教会生神女就寝が6世紀ごろに西方に伝わったものだが、信仰の内容はその後西方独自の発展を遂げた[要出典]。西方での最初の記録はトゥールグレゴリウスによる(P.L.71.coll.708)。このころは1月18日に祝われていた。その後皇帝マウリキウスの時代に、現在の8月15日と定められた。中世から聖母の被昇天はスペインイタリアドイツ等で崇敬されていたが、とくにバロック期以降盛んに信じられるようになり、教義とされるに到った。

南ヨーロッパや中南米などカトリック信徒の多い国では、8月15日が祝日となっている。日本でもカトリック教会では「聖母の被昇天」を祝う祭日とされている。

また、カトリックでは伝統的に、マリアは、その母であるアンナの母体に宿った瞬間から「アダムの罪(原罪)」から保護されたと信じられてきた。これが無原罪の御宿りの意味するところである。12月8日無原罪の聖マリア[2] の祭日であり、1854年に定められた。

正教会では8月15日(ユリウス暦の場合はグレゴリオ暦の8月28日に相当)に生神女就寝祭を祝う。これは「聖母の被昇天」とは違い、マリヤの死を「就寝」「眠りにつく」とし、原世の肉体でそのまま天にあげられたとはみなさず、むしろ魂のみが天にあげられ、来世の栄光の体を与えられたとする。またマリヤ信心は信仰のうちにおのずとくだされる私的啓示として理解されるものであり、教義として理屈抜きで信じるべき内容ではないと考える。

図像学的には、聖母の被昇天がマリアを成人の姿で描くのに対し、生神女就寝は、現世での生を終え眠りについたマリアの亡骸の傍にキリストが立ち、幼子の形をしたマリアの魂を抱き取っている姿で描かれる。ただし、就寝の三日後とされる、マリアが使徒たちに天の栄光において現れた場面では、東方教会においてもマリアは成人の姿で表される。


聖母被昇天 (ルーベンス)

聖母被昇天』(せいぼひしょうてん)は、フランドルの画家ピーテル・パウル・ルーベンスにより描かれた絵画である。同名の作品が複数確認されている。

  1. アントウェルペン聖母大聖堂に収蔵されている作品[1]。本項では、この作品について扱う。
  2. ウィーン美術史美術館に収蔵されている作品[2]
  3. デュッセルドルフのクンストパラスト美術館に収蔵されている作品[3]

聖母の被昇天とは? | カトリック中央協議会


聖母被昇天祭 – La France au Japon

カトリックの祝日である聖母マリアの被昇天祭は8月15日に行われます。この祝祭は今日、フランスではクリスマス、昇天祭、諸聖人の日とともに4つのカトリックの祝日に数えられます。

 夏の8月中旬の聖母被昇天祭の前後を休日にする連休は、家族や休暇仲間に合流するために旅立つ勤労者にとって大型バカンスを思わせる休暇です。人々の熱気にあふれた和気あいあいとした時間は、多くの場合、あっという間に過ぎていきます。

 フランスの多くの村では、8月に村祭りがあります。そこで、この連休に合わせて、村祭りが開催されることが多く見られます。

 カトリック信徒にとっての意義

 聖母被昇天祭はカトリックの信仰生活にとって大事な祝祭の1つです。地上の生活の終わりに、神とともにある聖母マリアの栄光を祝福する祭典です。マリアは死後、「天国に入る」ために地上生活から召し上げられました。被昇天祭(Assomption)はラテン語の「assumptio」が語源で、春の昇天祭(Ascension)とは区別されます。

 何世紀もの昔から、とても親しまれている祝祭と聖母行列

 被昇天祭は8月15日前後に世界各地に集まるカトリック信徒によって祝われます。フランスでは、おびただしい数の礼拝場所がマリアに捧げられます。

 パリでは8月14日、カトリック信徒がサン=ルイ島とシテ島周辺のセーヌ川上で聖母行列を開催します。ル・ピュイ=アン=ヴレーのマリア祭やノートル=ダム・デュ・ピュイの国際的な聖母行列も有名です。ルルド大聖堂にも何千人もの巡礼者が、この機会に訪れます。


「週刊大司教 第三十九回 聖母の被昇天」- カトリック東京大司教区


2021年聖母被昇天 菊地大司教メッセージ

聖母の被昇天の祭日にあたり、菊地大司教よりメッセージをお届けします。

カトリック福岡司教区が配信する音声説教です。福音朗読と説教を聞くことができます。 カトリック福岡司教区 http://fukuoka.catholic.jp/

カトリック山手教会 聖母の被昇天

聖書本文は、㈶日本聖書協会発行『聖書 新共同訳』(一九九九年度版)による

カトリック山手教会 聖母の被昇天

#カトリックの典礼配信

ミサは、事前に登録された方のみで人数を制限して行っております。教会に来られてもミサに参加することはできません。予めご承知おきください。

2021年8月15日 カトリック幟町教会 – 聖母の被昇天(祭日)ミサ –

15/08/2021(日) 10 AM 『聖母の被昇天ミサ (B年)』

2021年8月8日(日)に参加人数限定で行われる 『聖母の被昇天ミサ 』(B年)のライブ配信です。

緊急事態宣言が発出されています。

皆様に自由にミサに与っていただくことができないので、典礼のライブ配信をします。

いつもミサに与るときと同じように会衆の応答を唱え、ともに祈って下さい。

聖歌隊の歌は、事前に録音したものを使っています。

※ ミサ中のお説教は教会ホームページに後日掲載します。

https://www.ignatius.gr.jp/news/strea

【本日の聖書朗読箇所】

第1朗読 ヨハネの黙示 (黙示録 11:19a, 12:1-6, 10ab) 第2朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙(1コリント 15:20-27a ) 福音朗読 ルカによる福音 (ルカ 1:39-56)

8月15日18:00 司式 タルチシオ菊地功大司教 #聖母被昇天#カトリックの典礼配信

カトリック聖人の生活 ✞ パート1 – シエナの聖カタリナ ❀ リジューの聖テレーズ ❀ 聖イグナチオ・ロヨラ ✰ アビラの聖テレサ ❀ 聖フランシスコ・ザビエル ✰ アッシジの聖フランシスコ ✰ 福者カルロ・アクティス ✰ アッシジの聖クララ ❀ マザーテレサ ❀ 聖ドミニコ ✰ 聖ベルナデッタ ❀ 聖テレーズの約束 ❀ 聖カタリナ・ラブレ ❀

カトリック聖人の生活 ✞ パート1 -【シエナの聖カタリナ】【リジューの聖テレーズ】【聖イグナチオ・ロヨラ】【アビラの聖テレサ】【聖フランシスコ・ザビエル】 【アッシジの聖フランシスコ】【福者カルロ・アクティス】【アッシジの聖クララ】【マザーテレサ】【聖ドミニコ】【聖ベルナデッタ】【聖テレーズの約束】 【聖カタリナ・ラブレ】


喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある(マタイ5・12a)

 古くから数多くいるキリスト教の聖人の伝記を一望すると、いくつかの事実が浮かび上がる。

1.聖人の職業は実にさまざま。私たちは、聖人になるには修道者になって修道生活を送って…とイメージするが、聖人には王もいれば乞食もいる。インテリも庶民も、医師もうつ病の人も、農民も教師も、ストッキングの会社の社長もいる。主人も召使いもいれば、年寄りも子供も女性もいる。

あらゆる時代、国、身分、能力、職業にかかわらない。つまり、聖人とは私たちにとって身近な存在なのだ。


シエナの聖カタリナ】教会刷新 アヴィニョン捕囚・教会大分裂(シスマ)

14世紀、教皇は遠くフランスのアヴィニョンに幽閉されていました。当時のカトリック教会は堕落し、腐敗を極めていました。アヴィニョンにある教皇庁跡。教皇のいわゆるバビロン捕囚。 カタリナはいわゆるシスターではなく、ドミニコ会の在俗信者です。そんな彼女を通して、教会は刷新され、教皇のローマ帰還を促し、ついには、教皇をローマに連れ戻すことに成功しました。

カタリナはイタリア北部シエナに、1347年3月25日生まれました。 カタリナが6歳の時、丘の上のサンドミニコ教会の上に、教皇の衣を召し、教皇冠をいだいたキリストの幻を見ます。この出現が、彼女の一生涯を決定づけました。主に身をささげて、人々の救霊のために生活するようになりました。

リジューの聖テレーズ】小さき道 女性三人目の教会博士

修道女テレーズ・マルタンが最後の息を引き取ったのは1897年、9月30日の午後7時20分。享年24歳でした。 家族とわずかな友人、そして20人の修道女以外、彼女を知る人はいませんでした。 ところが、15年もしないうちに、自叙伝は100万部が印刷され、世界的に有名になりました。 テレーズは生前、次のように予言していました。

「神様は、私の大胆な望みを無限に超えた驚くべきみ業を、私のためになさるでしょう」 テレーズの死後、彼女の取り次ぎによって行われた奇跡の記録は記録することが不可能なほどの量となり、 1940年には一日平均、三千通の感謝の手紙が、リジューのカルメル会修道院に殺到するほどになりました。 彼女の腐敗を免れたご遺体は、現在もここに安置されており、見ることができます。彼女は奇跡をまき散らし、人々の心を変えました。

聖イグナチオ・ロヨラ】 イエズス会創立の物語

カトリック教会最大の修道会、イエズス会初代総長。イグナチオ・デ・ロヨラ。 彼は若き日に、異端審問官から危険人物とマークされ、宗教裁判にかけられ、なんら異端の証拠はないにもかかわらず、無実の罪で突然、17日間幽閉されたことがありました。

1492年、スペイン王国はイスラム王国をグラナダで滅ぼしました。

イスラム勢力のウマイヤ朝が711年にイベリア半島へと侵入。一時は半島全体がイスラム国家となりましたが、700年後、ついにはイスラム国家の撃退に成功したのです。 このレコンキスタ(再征服運動)の終了の一年前、スペイン、バスク地方、ロヨラ城に、イグナチオは生まれます。騎士として各地を転戦したイグナチオ。

1521年5月20日に行われたパンプローナの戦いで負傷します。療養中は、キリスト伝と聖人伝。二冊の本に夢中になりました。そして、聖フランシスコや聖ドミニコのように生きたいと願いました。

アビラの聖テレサ】完徳の道 霊魂の城 教会博士

中世のカトリック教会は大変裕福で、聖職者は第二身分の貴族を超え、第一身分。司教の報酬は封建領主を超えるほど。聖職者の中には秘密の子供をもつ者もおり、堕落していました。カトリック教会は宗教改革により最大の危機を迎えていました。 19歳でカルメル会に入った彼女は修道院の中でこの教会分裂の状況を憂い、泣いていました。

当時の修道生活は、規律・修道精神が緩慢となっており、テレジアはそのことにも失望していました。 テレジアは、幻滅、悲哀、霊的乾燥、信仰に対する疑問などに襲われます。しかしこの苦しみを通して、「魂の奥底で、神とともに生きる」祈りと瞑想の深い神秘の体験をします。

聖フランシスコ・ザビエル】 東洋の使徒

東洋の使徒、フランシスコ・ザビエル。 2014年11月22日、インドのオールドゴアで、 フランシスコ・ザビエルの遺体が公開されました。

10年に1度、一般公開されるザビエルの遺体。 次回の公開は2024年です。

1549年、日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエル。

東洋の使徒と呼ばれるザビエルは、1506年4月7日、 スペインのナバラ王国、ハビエル城で生まれました。

パリ大学にて、同じ寮にいたロヨラから霊操の指導を受けました。 ロヨラ、ザビエルらパリ大学の7人は、モンマルトルの丘にて、 イエズス会を結成します。

1540年、ポルトガル王ジョアン3世は、生まれたばかりの イエズス会に対し、アジア宣教師を要請しました。 ザビエルは、1541年4月4日、アジアに向け出航しました。

荷物は数冊の書と、毛布1枚だけでした。 多くの苦難を経て、5月5日ついにインドのゴアに到着しました。 インドでの布教は進展しましたが、 現地ポルトガル人が女奴隷を買って欲望を満たしているのが 耐えられませんでした。 そこで1545年、異教徒への布教をめざして 最前線のマラッカに移りました。

そこで、日本人ヤジローと運命的な出会いをするザビエル。 ヤジローは薩摩の島津家の家臣の息子で、 人を殺してマラッカまで脱出してきたとのことでした。 ザビエル一行は、もう一人の日本人、 ベルナルドとともに鹿児島に上陸。 島津貴久に布教許可を得、短期間で100人余りが入信しました。

仏教からのクレームも露わになり、ザビエルは、 王に会って布教許可を得るべく、京都に行くことを決意しました。 しかし、都は荒れ果て天皇との会見もできず、 10日余りでそこを去りました。 その後、山口に行き、天皇に渡すはずだった土産を渡して 布教許可を取りました。短期間で5~600人が入信しました。

ザビエルは日本人の印象を、次のように報告しました。 ここから日本に関する経験を述べる。まず、今まであらゆる民族の 人々と話してきたが、日本人こそ一番良い発見であった。 キリスト教以外の宗教を信仰する民族の中で 日本人に勝てる他の民族はいない。

なぜなら、彼らの話し方はとても丁寧だし、そのほとんどが悪気 のない優しい人々であり、名誉の重んじた素晴らしい人々である。 何よりも名誉を大事にする。彼らのほとんどが貧しい人々である。 たとえ身分の高い人が貧しくても、 身分の低い人に軽蔑はされないのである。

日本人にあって我々キリシタンの人々にないことが1つある。 それはたとえ身分の高い者が、 いくら貧しくとも金持ちと同じように尊敬されるのである。 これは我々のようなキリシタンの人々にはみられない現象である。 身分の高い人はいくら財産を獲得できようとも 他の身分の人とは結婚はしない。 なぜなら、身分の低い者と結婚をすることは 彼らが自らの名誉を失うことにつながるからである。

つまり、日本人は何よりも名誉を大きく重視するのである。 ザビエルが日本に滞在したのは2年半ほどでした。 日本での布教には影響の強い中国での布教が 不可欠と考えたザビエルらは、中国に向かいます。

1552年9月、中国の上川島に到着し、上陸許可を申請。 しかし中国への入境は思うようにいかず、ザビエルは病を発症。 12月3日、上川島でこの世を去りました。

46歳でした。 ザビエルの遺骸は中国の上川島に葬られましたが、 2カ月後に開かれたてみると全く痛んでいませんでした。 参考文献:「ザビエル」結城了吾著 聖母文庫

アッシジの聖フランシスコ】 福音の実践

福者カルロ・アクティス】ご聖体のサイバー使徒

「ご聖体のサイバー使徒」福者カルロ・アクティス(Carlo Acutis 1991-2006年)の生涯についてのビデオです。彼は2006年10月12日午前6時45分に帰天しました。わずか15歳でした。カルロ・アクティスは、2020年10月10日にイタリアのアッシジにて列福されました。

アッシジの聖クララ】清貧の生涯

わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。マルコ10:29-30 福音のためにすべてを捨てたフランシスコ。彼の完全な清貧の生き方、澄んだ瞳にクララは惹かれます。彼女はひそかに彼のもとを訪れ、指導を願いました。 1212年の枝の主日の晩、クララは家を出て、ポルチュンクラの小さな教会へ向かいました。フランシスコは自らの手でクララの髪を切りました。クララは世俗の衣服を脱ぎ、回心の貧しい修道服を身に着け、神と婚姻を結び、キリストの花嫁となりました。こうして清貧の女性修道会、クララ会が始まりました。クララは修道院にただ三種の花だけを植えました。純潔の象徴としてのユリの花。謙遜の象徴としてすみれ。そしてばらの花は、神と人々への愛を意味しています。

マザーテレサ】愛と献身の生涯

1979年12月10日、マザー・テレサは69歳の時、ノーベル平和賞を受賞しました。白地に青いふち撮りのついたサリーにいつも履いていた革ぞうりの姿で授賞式に参加しました。

聖ドミニコ】福音の宣教 異端との対決、破滅しそうな霊魂への愛、キリストの真の貧者、福音の完全実践、ロザリオの祈りの由来

ドミニコ会の精神は「観想し、観想の果実を他の人びとに述べ伝えよ」という言葉によくあらわれています。そのほか、次のような行動原則を掲げています。個人的「使命」です。(従来の修道院のような、規律に従って上長の命令を守り、一個所に定住するという集団に埋没するのではありません) 委託された職務は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という「福音の宣教」でした。

聖ベルナデッタ】野に咲く花 ルルドの泉の奇跡

ベルナデッタ語録 「自分のことなどは、わたしにとって、もうどうでもよいことです」。 「聖母がわたしをお選びになったのは、わたしがもっとも貧しく、もっとも無知な者だったからです」。 「わたしは何も知りませんし、何のとりえもありません」。… フォルカード神父に語った言葉。 「私はプロシア軍を見たくはないのですが、恐れてはいません。神はどこでも同じ方ですからね。プロシア人の間にもいらっしゃるでしょう」 … 普仏戦争のとき、プロシア軍がヌヴェールに迫った頃の手紙の言葉。 「だめです。わたしは貧しいままでいたいから」 … 新聞記者からパリに来れば金持ちになれると誘われたときの言葉。 「家の者が金持ちになることを、私は決して望んでいません。家の者が神を愛し、正しい生活を送ることだけを望んでいます」。 「病人の世話については貧しい人の中にイエス・キリストをみることを忘れないようにしなさい。病人が汚ければ汚いほど、その人を愛さなければなりません」 … 看護の仕事をしていた時代の言葉。 「私は一粒の麦のように挽き砕かれているのですね」 … スール・レオンティーヌに語った言葉。

【聖テレーズの約束】バラの雨 リジューの聖テレーズ 最も人気の聖女のひとり

テレーズは生前、次のように予言していました。 「神様は、私の大胆な望みを無限に超えた驚くべきみ業を、私のためになさるでしょう」 「私は天国から薔薇の雨を降らせましょう」 テレーズの死後、彼女の取り次ぎによって行われた奇跡の記録は記録することが不可能なほどの量となり、1940年には一日平均、三千通の感謝の手紙が、リジューのカルメル会修道院に殺到するほどになりました。 テレーズの遺体は、生前の彼女の要望通り、死後、骨になりましたが、1910年9月6日の最初のお墓の調査の時、棺桶を開けるとすみれとバラの香りがし、棺桶に入れた13年前と同じ状態で枯れる事なく新鮮なままの棕櫚が出てきました。

聖カタリナ・ラブレ】沈黙の聖女 不思議のメダイ 愛徳姉妹会

沈黙の聖女、聖カタリナ・ラブレ。不思議のメダイの物語。ルルドのベルナデッタと同時代の聖カタリナ・ラブレ。メダイが有名になったにも関わらずカタリナは無名をとおし当時の教皇にすら知らされずに、亡くなるまで40年間パリの郊外の老人施設で献身的に介護を行ないました。又、列福の前の遺体発掘の際、体が腐敗していなかったことが確認されました。

François Xavier / フランシスコ・ザビエル (司祭, イエズス会, インドと日本の使徒 🇮🇳🇯🇵、†1552)

フランシスコ・ザビエル — Wikipedia

フランシスコン・デ・ザビエルスペイン語: Francisco de Xavier または Francisco de Jasso y Azpilicueta, 1506年4月7日1552年12月3日)は、スペインナバラ王国生まれのカトリック教会司祭宣教師イエズス会の創設メンバーの1人。バスク人

ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドゴアに派遣され、その後1549年天文18年)に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。また、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日


【漫画】フランシスコ・ザビエルの生涯を簡単解説!【日本史マンガ動画】

世界史や日本史などの歴史を漫画で、アニメのように分かりやすく解説します。今回紹介するのは、フランシスコ・ザビエル。イエズス会創設メンバーの一人で、日本に初めてキリスト教をもたらした人物です。ザビエルの生涯を漫画で紹介します。 ※諸説ある中のいくつかを採用して物語にしています。ひとつの説として楽しんでいただけると嬉しいです。 ※大筋は外さないようにしていますが、間違っている場合はご指摘いただけると助かります。



聖フランシスコ・ザビエルの足跡と平戸でのキリスト教の芽生え | nippon.com

長崎県北西部に位置する平戸は、1550年にフランシスコ・ザビエルが訪れて以来、日本のキリスト教の歴史に関わって来た。現在、百年以上の歴史を誇るものなど多数の教会があり、ポルトガルやスペインの宣教師達の足跡をみることができる。ザビエル布教活動を振り返りながら、重要な教会群を訪ねた。

イエス・キリストとその聖心 ❤️ 🙏(せいしん・みこころ, 英: Sacred Heart)

イエス・キリストとその聖心 ❤️ 🙏(せいしん・みこころ, 英: Sacred Heart)

聖心(せいしん・みこころ, : Sacred Heart)とはイエス・キリストの人類に対する愛の象徴である心臓、またそれに対する崇敬を示すことばである。

キリスト教の中でも特にカトリック教会で盛んな崇敬であるが、聖公会や、一部のルーテル教会でも行われている。東方典礼カトリック教会でも聖心崇敬が見られることがあるが、反対のあるところでもあり、「典礼のラテン化」の例とみなされている。正教会と、ルーテル教会を除く大多数のプロテスタント諸派にはこのような崇敬はみられない。

聖心は、イエズスの聖心会などの修道会やそれらに関係する団体の名として用いられている。フランス語では「サクレ・クール」であり、サクレ・クール寺院にその名を見る。

現代の聖心崇敬は、フランスのカトリック修道女マルガリタ・マリア・アラコク神秘体験によるが、中世キリスト教神秘主義の中にいくつかの萌芽を見出すこともできる[1]

カトリック教会では、聖心はイエス・キリストへの償い英語版)(贖罪)と密接に関連している。教皇ピウス11世はその回勅『ミゼレンティシムス・レデントール』(Miserentissimus Redemptor, 1928年)において「聖なるイエスの心臓へ対する崇敬においては償いと贖いの精神こそが常に第一の、そして最重要の地位を占めている」と述べている[2]。カトリック教会の典礼暦では1856年より聖心の祝日が設けられており、ペンテコステの19日後である。

聖心はしばしば宗教絵画英語版)の中に後光で輝く燃える心臓として描かれ、槍に突かれた傷や、周りを囲むいばらの冠、十字架、出血などがともに描かれる。時には、イエスの体の上にあってイエスがその心臓を指し示す図柄も用いられる。傷といばらの冠は受難を示し、炎は愛の変容させる力を表象する。



パレルモニアル ~イエスの聖心のご出現


聖心会みこころセンター

「共に学び、祈り、分かち合う場」として 聖心会 みこころセンターが開設されました。
ホームページを通して、情報発信をしていきます。


イエスの聖心(みこころ)と神のいつくしみへの礼拝 | Verbum Caro Factum Est

教会は典礼においてキリストの御生涯の神秘とその教えを表現し、神への捧げもの、そして秘跡の執行によって神の恵みの目に見える有効なしるしを信者に授け、信者はその秘跡に与ることによって神の招きに応える。礼拝式そのものは、一方的な神への感謝と賛美だけでなく、神からの人への祝福の場であり、典礼の挙行において、神と人との双方向の祝福の場となる。

典礼は総則通りに行われることはもちろん大切だが、教会がその典礼を通して信者に何を伝え何を教えようとしているかを明らかにするためにカテケージスの場を配慮をもって準備しなければならない。そして、教会が今日祝う神秘を五感をフルに活用して教会共同体のなかで共に祝うべきものである。ミサにおいて司式者も会衆も共に聖書のみ言葉を聞き、聖歌を歌い、鐘の音を聞き、立ったり座ったり跪いたりといった典礼固有の動作や所作を行い、香の煙が昇ってゆくのを見つつその香りを嗅ぎ、ご聖体を頂く。もちろん、障碍がある方がフルに活用できていないというわけではない。お年寄りや体が不自由な方は立ったり座ったりが困難であるし、様々な事情のもとにある方々も共同体のなかにはいる。出来る範囲で、十分に味わうことができるように配慮しなければならないと思う。


イエスの聖心への信心 | いつくしみセンター公式サイト


キリスト教で有名なイエスキリストの生涯を10分でまとめてみました。教養として押さえておきたい「最後の晩餐」のエピソードも理解できるようになります!

<目次> 00:00 オープニング

00:30 イエスの誕生

01:43 キリスト教のはじまり

03:00 イエスへの試練(荒野の誘惑)

05:44 十二使徒(最後の晩餐)

06:51 贖罪とアガペー

09:31 イエスの復活

イスラエル編~イエスの軌跡を辿る旅 / Israël – Un voyage pour suivre le chemin de Jésus

「えり旅♪」Vol 4 イスラエル編~イエスの軌跡を辿る旅~Part1

前編ではイスラエルの首都、エルサレムの旧市街地とイエス・キリストが十字架を背負って歩んだ道、 「ヴィア・ドロローサ」第1~第5ステーション、イエスが墓に収められたとされる最終地点、ゴルゴダの丘の「聖墳墓教会」からお伝えします☆

音叉セラピスト嶋村えり子と スピリチュアルカウンセラー並木良和が世界各地を巡り、パワフルな写真やメッセージをお届けする番組です☆


「えり旅♪」Vol 5イスラエル編~イエスの軌跡を辿る旅~Part2

イスラエル編Part2では、身重の聖母マリアがヨハネの母エリザベートに会いに行ったことを記念して建てられた「マリア訪問の教会」塩分濃度が高く誰もが浮くことで知られている「死海」今もイエスのエネルギーが色濃く残るガリラヤ湖周辺をご紹介します☆

音叉セラピスト嶋村えり子と スピリチュアルカウンセラー並木良和が世界各地を巡り、パワフルな写真やメッセージをお届けする番組です☆